| あひるの語源 |
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<玄海>を引くと<あひる>は<足のみずかき大きくして広くを言い><あしひろ>が転化したものと書かれている。また、業者間では<ひる>と呼ばれているが、これは昔、京都で<ひる>と呼ばれていたものが伝わったものか、或いは北河内、中河内の湿田地帯で飼われていたあひるが<泥田あひる(どろたびる)>と称せられており、それが簡略化されたものか。 事実、明治時代の鶏肉商の看板には<ひる><かしハ>と書かれていたことから、京都、大阪辺りでは<ひる>の俗称があったものと思われる。現在市場では<合鴨>と呼ばれているが、合鴨は鴨とあひるを交雑して作ったものであるが、実態は<あひる>である。 |
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大阪あひるのルーツ |
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あひる(或いは鴨)と人間との付き合いは、かなり古くからのものであったらしい。最初は野生の鴨を飼い馴らし、家畜化したものであろうと推測される。 古代エジプト文明を表した壁画の中にも<あひる>らしいものが見られるし、ローマ時代後期にはドイツ産あひるが知られている。又、中国でも早くから家畜化されており、渡り鳥として飛来した鴨類を家畜化したものであれば、洋の東西を問わず人間との生活をともにしてきたものであろうことは想像に難しくない。 大阪にあひるがいつ頃から飼われていたか。記録によれば、豊臣秀吉が奨励したといわれ、又それより古く平安朝の時代から飼育されていたとの説もある。 <あひる>は、明治末期津村某により産業化が始まり、城東区茨田町周辺を中心とした湿地帯で飼育され、在来の青首あひるに、昭和7・8年頃ペキン種をもって改良された。 大阪を中心として発達したあひるは<天満神宮の夏祭りとあひる>と言って、土用丑の日に好んで食べられた。鶏に比べ産卵量が劣ったものの、1羽年間100個余りを得ていたようで、製菓、中国料理のピータンに用いられてきた。 <あひる>の貧食性は水草や水中の小動物を好むため、放飼が昔から飼育手段ではあったが厨芥残渣等が入手容易になってからは、飼育の集約化からもこれの利用が盛んとなり、そのため豚とあひるの両者併用の飼育が盛んとなった。 |